世界の名店で腕を磨いてきた料理人が、今、植物工場に可能性を見出す。その背景にある、食の未来への危機感と次世代への想いとは。
「かつては、星付きレストランで世界が回っていると思っていました。星付きの世界こそが、食のすべてだと」
そう語るのは、イタリア、スペイン、ペルーなど、世界各地の名店で10年以上にわたり研鑽を積んできた料理人・太田哲雄氏。世界最高峰の料理を追い求めてきた太田氏が、今、新たな挑戦として選んだのは、水耕栽培による未来の食づくりだ。
2026年、株式会社KIBOUが大阪府箕面市に開設したアグリ・エクスペリエンス・ラボ「MUGEN FARM」のガストロノミー・アドバイザーに就任。料理人として培ってきた知見を生かし、野菜の栽培・商品開発段階からプロジェクトに参画する。
なぜ今、水耕栽培なのか。そして、料理人として何を実現しようとしているのか。太田氏が見据える食の未来について話を聞いた。
「星付きレストランが食のすべて」だった。世界を知る中で変わった価値観
―太田さんは、世界各国の名だたるレストランで経験を積まれてきました。そうした経験は、現在の食に対する考え方にどのような影響を与えていますか。
太田氏: 若い頃は、星付きレストランで世界が回っていると思っていました。星付きの世界こそが食のすべてだと感じていた時期もあります。
でも、実際にはそうではなかったんです。
星付きレストランに来るのは、限られたお客様です。食材も一番良い部分を使うことが多い。でも、ではそれ以外の部分はどうなるのか。安く買い取られて加工品になることもある。そうした世界だけで、本当に食を豊かにできているのだろうかと考えるようになりました。
海外では、料理人が料理を作るだけでなく、生産者として活動したり、農産物の流通に関わったりすることも珍しくありません。僕自身も、さまざまな経験をさせてもらいました。
料理のおいしさを追求することはもちろん大切です。でも、それだけでは食の世界は変わらない。食材がどこで、どのように作られ、誰に届くのか。もっと広い視点で食を捉えることが必要だと思っています。
10年後、20年後も、今と同じものを食べられるとは限らない
―今回、MUGEN FARMのガストロノミー・アドバイザーに就任された理由を教えてください。
太田氏: もともと環境問題には強い関心がありました。海外で長く生活し、さまざまな地域を訪れる中で、環境問題や食料問題について考える機会が多かったんです。
日本でも自然災害が増え、今まで当たり前に採れていたものが採れなくなることが起きています。
今、僕たちが食べているものを、10年後、20年後も同じように食べ続けられるのか。それはもう、誰にもわからない時代になっていると思います。
そう考えたとき、環境の影響を受けにくい条件で、安定して作物を育てられる水耕栽培には、大きな可能性があると感じました。
大切なのは、露地栽培と水耕栽培のどちらが優れているか、ということではありません。
これから食べられなくなるものが出てくるかもしれない。その未来に備えて、今から何ができるかを考えることです。
100年後、200年後も食べ続けられる環境をどう残していくのか。そのための選択肢を、今から増やしておく必要があると思っています。
―その中でも、MUGEN FARMに参画しようと思われた決め手は何だったのでしょうか。
太田氏: まだ始まったばかりのプロジェクトだということも大きいですね。
すでに完成されたものに関わるよりも、これから自分たちで作り上げていくことに面白さを感じます。
僕自身、まだまだ勉強しなければならないこともたくさんあります。これまでの経験を生かしながら、皆さんと一緒に学び、一つの形にしていけたらと思っています。

「良い野菜を作る」の、その先へ。料理人が栽培段階から関わる意味
―今回の取り組みでは、完成した野菜を調理するのではなく、栽培・商品開発の段階から料理人として関わっていただきます。そこには、どのような可能性があると考えていますか。
太田氏: 僕たち料理人は、一般的には生産された食材を調理・加工する仕事だと思われています。でも、料理にとって一番大切なのは、やはり食材そのものです。
生産者の皆さんは、本当に良いものを作ろうという強い想いを持っています。ただ、その食材をどう生かすか、どんな用途に向いているのかというところまで、すべてを考えるのは難しいと思うんです。
例えば、ある野菜ができたときに、そのままサラダとして食べるのがいいのか、加工してソースにするのか、スープにするのか。使い方はいろいろありますよね。
生産者は作ることで手いっぱいになってしまうこともあります。だからこそ、そこに僕たちのような専門家が入る意味があると思っています。
また、100人に意見を聞けば、100通りの答えが返ってくることもあります。そのすべてを受け入れるのではなく、何が適しているのかを判断することも大切です。
海外ではこうだったとしても、日本で同じ方法が正しいとは限りません。誰に届けたいのか、どのように食べてもらいたいのか。その目的に応じて方向性を考え、具体的な形にしていく。
僕がこれまで料理人として、また食材の流通や商品開発に関わる中で経験してきたことを、そうした部分に生かせるのではないかと思っています。
実際に食べて感じた、MUGEN FARMの野菜の可能性

―今回、MUGEN FARMの施設を見学し、実際に栽培された野菜も召し上がっていただきました。どのような印象を持たれましたか。
太田氏: 野菜がすごく力強いと感じました。元気に育っている印象がありましたし、味についても、露地栽培に劣らず、一つひとつの野菜の風味がしっかりと感じられました。
そこには十分な可能性があると思います。
これから大切なのは、それぞれの野菜が持つ良さを、どう引き出していくか。そして、その可能性をどう広げていくかということですね。
―水耕栽培の野菜そのものについては、以前からどのような印象を持たれていましたか。
太田氏: 水耕栽培については、まだまだ情報が知られていないというのが大きいと思います。
天候に左右されにくい環境の中で、一年を通して野菜が育つ現場を、実際に見たことがある人はほとんどいないのではないでしょうか。
知らないからこそ、何となくイメージで判断してしまう。そこは、情報が伝わることで変わっていくと思います。
ただ、僕は水耕栽培だから特別だという見せ方をする必要はないと思っています。
きれいな環境で、大切に育てられた、おいしい野菜がある。それがスーパーに自然に並び、皆さんの食卓に届く。
露地栽培の野菜も、水耕栽培の野菜も、普通に選べるようになればいいと思うんです。
水耕栽培を特別なものとしてではなく、暮らしの中に自然に浸透させていくことが大切なのではないでしょうか。
100年後、200年後のために。次世代の料理人へ「背中で伝えたい」
―太田さんはこれまで、料理人としてさまざまな実績を残されてきました。今後はどのようなことを実現していきたいと考えていますか。
太田氏: 今は、もっと売上を伸ばしたいとか、もっと有名になりたいということを、特別に追い求めているわけではありません。
それよりも、これからの若い料理人たちのために、少しでも社会が良くなればいいなと思っています。
ただ、若い料理人たちは、まだそういうことに気づく機会が少ないかもしれません。
100年後、200年後のために、今から種をまいておいた方がいい。そういうことは、言葉で説明するだけではなく、自分の背中で見せていかなければいけないと思っています。
僕が水耕栽培に関わるのも、今の自分のためというより、未来のために必要だと思うことをやりたいからです。
僕が取り組んでいる姿を見て、若い料理人たちが「もしかしたら、こういうことも必要なのかもしれない」「自分たちも勉強してみよう」と思ってくれたらうれしいですね。
―最後に、MUGEN FARMを通じて、どのような未来を目指していきたいですか。
太田氏: 最終的には、一般のご家庭の食卓に、こうした野菜が自然に届くようになればいいと思っています。
水耕栽培だからといって、特別なものとして扱う必要はありません。
おいしくて、安心して選べる野菜が、当たり前に身近にある。そういう形で広がっていくのが一番いいと思うんです。
そのために、どういう野菜を作り、どう届けていくのか。MUGEN FARMの皆さんと一緒に考えていきたいですね。

かつて、星付きレストランの世界に食の可能性を見出していた太田氏。
世界各地の食文化や生産現場に触れ、料理人としての活動を広げてきた今、その視線は、未来の食を支える仕組みそのものへと向けられている。
料理人が栽培段階から関わることで、野菜の可能性を広げる。そして、水耕栽培という新たな選択肢を、特別なものではなく日々の食卓に当たり前に並ぶ存在へと育てていく。
太田氏とMUGEN FARMの挑戦が、ここから始まる。